2006年 9月 15日

盛岡ポタリング日記

南部氏20万石の城下町・盛岡に秋を告げる秋まつり、盛岡八幡宮の例大祭を見に来ましたが、
時間が空いたのでクルマに積んできた自転車で市内をポタリングしています。


岩手銀行中ノ橋支店

旧盛岡銀行である岩手銀行中ノ橋支店は、市街地の中心部に位置し中津川・中の橋と一体となって盛岡の代表的な景観を形成しています。東京駅の設計者である葛西萬司(1863〜1919 平泉町生まれ)が設計しており、外観が東京駅に似ています。明治44年に建てられたもので、赤レンガ造りに緑のドーム、その輪郭はルネッサンス風の厳格さを現し、明治末期のレンガ組積造りは、美しい絵画的効果を発揮し格調高くそびえています。日没後はライトアップされ、その美しい輪郭が浮かび上がります。 宮沢賢治もこの建物が気に入っていたようで 「岩手公園」という詩の最後に
  弧光燈にめくるめき  羽虫の群のあつまりつ
  川と銀行木のみどり  まちはしづかにたそがるる

と記しています。 平成6年に、民間企業の業務用店舗で現在使用中のものとしては、わが国で初めての重要文化財に指定されました。地図はこちら  

旧第九十銀行(もりおか啄木・賢治青春館)

明治11年に士族の銀行としてスタートした第九十銀行が、明治43年に建てたもので、市内の銀行店舗としては最も歴史があり、ロマネスク風の趣をかもし出しています。 様式は簡略化され、内部は明治末期のデザイン潮流を偲ばせます。 しゃれたベージュ色のタイル貼りに、 花崗岩の加工仕上げと荒くカットした石積みとの組合せが風格ある造りで、平成16年7月に国重要文化財に指定されました。
もりおか啄木・賢治青春館は、この旧第九十銀行を保存活用して、石川啄木と宮沢賢治が青春を育んだ盛岡の街と二人の青春時代を紹介しています。地図はこちら  

盛岡信用金庫本店

昭和2年「盛岡貯蓄銀行」の店舗として建てられたもので、昭和33年に盛岡信用金庫が譲り受け、本店として使われています。 旧盛岡銀行(岩手銀行中の橋支店)と同じく、東京駅の設計者である葛西萬司が設計しています。 1階から2階まで立ち上がる6本の太い円柱、花崗岩に施した石彫りのパターン、内部のステンドグラスなどが重厚感を与え、昭和初期のモダニズムを表現しています。  昭和52年に盛岡市保存建造物に指定されています。地図はこちら  

盛岡 ござ九

格子戸の低い軒が続く「ござ九」は、1816年(文化13年)創業の商家で、地元では「ござくさん」と呼ばれています。屋号のとおり現在も、ゴザと畳、わら工品や荒物を扱っています。
現存する建物は江戸末期から明治まで増改築したものです。間口20間、総2階の木造建築は、豪商の面影を今に伝える貴重な商家です。
紺屋町側の母屋と、裏側の土蔵7棟、川べりの土塀は、盛岡を代表する景観となっています。 地図はこちら

 ■盛岡ござ九・森九商店■

盛岡 上の橋・擬宝珠

慶長14年(1609)に第27代藩主南部利直(なんぶとしなお)が、 盛岡城築城時に中津川に架けました。擬宝珠(ぎぼうしゅ・ぎぼし)を取り付けたのは、 1336年(延元元年)後村上天皇より恩賞として京都鴨川橋の擬宝珠の使用が許された故事によると伝えられています。慶長14年のものが8個、慶長16年のものが10個、合計18個が取り付けられています。この擬宝珠は、1945年(昭和20)に軍の金属供出になるところを、実業家でかつ郷土史に造詣の深かった太田孝太郎(1881〜1967)の尽力で、急きょ国の重要美術品に指定され、危うく難を免れました。その擬宝珠も、 400年近く経過して腐食が進み、小さな穴にコムクドリが巣をつくり、文化財保護か野鳥保護かとマスコミをにぎわしたこともあります。橋の擬宝珠で記念銘があり、制作年代も古く、残存個数が多いという点で、盛岡市の青銅擬宝珠は国内でもまれな存在です。現在の橋自体は、何回かの流失を繰り返し、昭和になってかけかえられたものです。 地図はこちら

  慶長十四年と彫られた銘が読み取れます。  

盛岡 旧井弥商店

本町通から上の橋を渡ると、左側に豪壮な黒漆喰の土蔵造りの家があります。明治の盛岡大火後に建てられたもので、当初は呉服問屋でした。
(現在は自然食品店)腕の良い職人さんが手間暇かけて造った建物です。昭和45年9月火災にあい,屋根が落ちたため修復し,現在の形となりました。
屋根は瓦葺き寄棟造り,外観は土蔵,大壁式艶出し,黒漆喰仕上(一部白漆喰塗)窓には外開きの土蔵式防火戸,窓上部に木製庇を設け,腰壁は人造石研出し仕上げとし,軒天井は木造を顕さずすべて漆喰塗りとし,防火に配慮してある。軒天井の持ち送り蛇腹,軒樋受け金物,呼樋に特徴がある。防火戸のない窓は火災後に改修された窓である。内部は,真壁式と木造柱,梁顕しの仕上げである。岩手銀行煉瓦造の室内と同じく県南産のけやきを使用している。1階の店舗内部は,階段と共に昔の姿をしのぶことができるが,2階は火災後修復のため現代化されている。地図はこちら  

盛岡 紺屋町番屋

昔ながらの望楼(ぼうろう)が目をひく番屋(ばんや)は、 明治24年盛岡消防よ組番屋として現在地に建てられた建物を、大正2年消防組第四部事務所として改築されたものが現在の建物といわれています。現在も盛岡消防団第五分団の番屋として使用されています。大正年間の木造洋風事務所建築の典型といわれます。建物は木造2階建で、1階は元来消防器具の常置場が大半を占め、花崗岩の石畳となっていますが、現在はその一部を上がり座敷に改造(昭和33年)し、街路二面に接する部分を消防車々庫としているそうです。寄合の多い番屋らしく、2階は畳敷の広間となっており、2階からは螺旋階段で屋根裏を通って屋根上の望楼に登っていきます。 地図はこちら  

盛岡 菊の司酒造

創業は230年ほど前に伊勢松坂から陸中郡山(現在の紫波町)に移り住んだ伊勢屋六代目 平井六右ェ門が酒造りを始めたのが最初でした。昭和43年には菊の司酒造と社名も改まり、180年以上続いた「平六」の伝統は今も酒造りの精神に受け継がれています。菊の司酒造は盛岡と石鳥谷の二工場で酒造りを行なっており、盛岡の本社菊の司工場では近代的な設備を整え、「菊の司」を中心に醸造。石鳥谷の七福神工場では手づくりのものが多く、昔ながらの酒造りが行なわれています。地図はこちら 

盛岡 石割桜

盛岡地方裁判所の構内にある石割桜は、 盛岡のお国自慢をするとき、よく取り上げられる珍しい桜です。 巨大な花崗岩の岩の狭い割れ目に直径約1.35メートル、 樹齢が360年を越えるといわれるエドヒガンザクラが生育しているのです。 客観的なデータからいうと、幹の太さも樹齢も、 残念ながらこれという日本一の記録は見当たりません。 しかし、巨大な花崗岩と調和した威厳ある美しい姿と珍しさでは、 日本一といっていいのではないでしょうか。
この石割桜にもかつて危機がありました。 昭和7年に盛岡地方裁判所が火災に遭い、石割桜も北側の一部が焼けましたが、 幸い全焼を免れ翌春には再び花を咲かせたのでした。 現在は保護管理も良く、毎年見事に開花を続け、たくさんの人の目を楽しませています。 ここは南部藩主の分家にあたる北監物の庭園であったといわれ、 明治初期には桜雲石と呼ばれていたようです。 1923(大正12)年、国の天然記念物に指定されています。地図はこちら  

桜山神社

寛延2年(1749)八代藩主・南部利視が、初代藩主・信直の没後百五十年にあたることからその遺徳を偲び、城内の淡路丸に勧請したのがはじまりで、最初は淡路丸大明神と呼ばれていました。そして文化9年(1812)淡路丸に桜の木があったことにちなんで桜山神社と改称したといわれています。
現在まつられているのは初代藩主だけでなく、藩祖・光行、二代藩主・利直と十一代藩主・利敬の4人で、いまも尚盛岡の守護神として鎮座しているのです。地図はこちら  

盛岡八幡宮 例大祭

 盛岡の秋祭りでもある八幡宮例大祭は、13日の前夜祭からはじまり、14日の神輿渡御、15日の例祭、16日の神事流鏑馬(やぶさめ)と4日3晩、盛岡の街全体が賑わいます。このほか、献茶祭、稚児社参など、さまざまな催しがあります。約10万人の参拝者が訪れます。 初めての祭典は、八幡宮が完成した翌年の延宝9年(1681)、旧暦の8月14日から3日間、盛大に行われたと伝えられています。
 盛岡山車は、京都祇園祭、江戸三社祭の出し物の長所を取り入れて、天(松・桜・藤・牡丹・竹)、人(人形)、 地(岩)、海(波・シブキ・滝)の法則が定まっています。歌舞伎や歴史上の名場面を飾り付けた各町内の山車が豪華さを競い合います。 宝永6年(1709)、南部藩の街造りの完成を祝い、若衆が町のシンボルである丁印(ちょうじるし)を八幡宮に奉納したのがはじまりと伝えられています。地図はこちら